心を耕し魂に学ぶ
令和8年2月号組合長エッセイ
江戸の末期、小田原藩領(現在の神奈川小田原市)の農家に生まれ、諸々の悪条件が重なり、極貧の苦しい生活環境の中から身を起こし、70歳の生涯で荒廃した全国6百余の郡や村村(今の県市町村)を次々と再建し復興させた二宮尊徳。生まれてから56歳までは名は二宮金次郎でした。先々月号からの続きです。「焚き木を背負い本を読んでいる少年」の銅像が日本全国の小中学校の校庭に建ってましたが、現在では、その銅像を見かけることはありません。何処にいってしまったのか?残念です。と先に綴りました。ある情報によると“ながらスマホ”を誘発する危険性があるというのもそのひとつでした。祖父や親の世代までは皆、尋常小学唱歌の二宮金次郎を歌えていたという。一番の歌詞は「柴刈り(山野に生える小さい雑木。それを折って薪にする)縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲よく 孝行を尽くす 手本は二宮金次郎」で3番まであり、すべて「手本は二宮金次郎」で締め括られていたといいます。
明治13年、元相馬藩主、相馬充胤は明治天皇に二宮尊徳の精神を是非知って頂きたいという一心から「報徳記」(二宮尊徳の思想と行動を詳記した伝記。高弟の富田髙慶著)八巻を清書して謹呈しました。明治天皇に二宮尊徳の精神を是非知って頂きたいという一心からでした。相馬藩は奥州の南端、今の福島県東部に位置し、現在の福島県相馬市と南相馬市を中心とする地域です。藩主の相馬公は平将門の血を引く関東の名家で、今に続く「相馬野馬追」でも知られてます。その大大名に匹敵する相馬藩が、天明の飢饉以来、急速に人口が減り、領民も疲弊し、死亡離散が増加して田畑の荒廃が進んだことから、藩の財政は逼迫していました。そして追い打ちをかけたのが天保の飢饉でした。元禄期に8万人いた藩の人口はついに4000人を切り20分の1にまで落ち込み、藩の維持も困難な状況にまでなりました。そんな時に荒廃した郡や村々の再建復興を成し遂げ続けている尊徳の偉業を聞き付けて、藩主相馬充胤は尊徳に「三顧の礼」で再建復興の指導を仰ぎました。その結果、相馬藩は瀕死の滅亡の状態から立ち直り、最盛期以上の豊かな藩となったのです。二宮尊徳の生涯に深い感銘を受けた明治天皇は、この3年後の明治16年に宮内省版として「報徳記」を刊行させて、知事以上の役職員に配布させました。そして、さらに多くの役人に読ませるため、明治18年には農商務省版も刊行されてます。明治天皇の二宮尊徳に対する愛情は、これだけにとどまりませんでした。高名な彫金家・岡崎雪聲の制作による二宮金次郎像(全国の小中学校に建てられたもののミニチュア)をたいへんお気に召されて、お買い上げになり崩御されるまで、陛下の机上にはずっとこの小さな「焚き木を背負って本を読んでいる金次郎少年」の像が飾られていたそうです。そのことを知っただけでも金次郎の人生の偉大さが理解でき驚きと感動です。
焚き木を背負って多くの本を読んできた金次郎少年。
読書は志を抱く契機ともなるし、悲観や逆境に至った時には忍耐性や抵抗力を保持する力ともなるでしょう。いま一度、二宮金次郎を知る時ではないでしょうか。
次号につづく

晩年の二宮尊徳の肖像画

おおやま情報
梅とすももの開花状況 2月11日New!!
心を耕し魂に学ぶNew!!
新年のごあいさつ
年末年始の業務予定
世界に誇る偉人 二宮尊徳
ひとつの宝物
貧しかった大山の村おこしはN.P.C運動と名付けられました。
旧役場庁舎前に建つ3つの願い像がこれを象徴しています。
それは「働くねがい」「学ぶねがい」「愛のねがい」です。
木の花ガルテン
木の花ガルテンの野菜はすべて健康な土で育てられた有機野菜です。1978(昭和53)年に最初の堆肥工場をつくって以来もう40年以上、キノコ栽培に使ったオガクズを発酵させて独自の堆肥をつくり、大山町全体の農地に毎年、1500トンすき込んできました。
人間の健康をつくるのは健康な食べ物。
どうぞ木の花ガルテンの新鮮で健康な農産物をお楽しみください。

農業者によるバザール
みずみずしい農産物と川の御馳走
毎朝7時半から生産者が次々と野菜を運んできて売り場がにぎやかに。

レストラン オーガニック農園
大山の農家でつくられてきた素朴な家庭料理をバイキング形式で召し上がっていただくレストランです。

木の花ガルテン大山本店
木の花ガルテン大山店には農業者によるバザール(直売所)と農家おもてなしレストラン・オーガニック農園以外にも焼きたてのパンを販売や梅の物産館などがあります。

五馬媛の里
木の花ガルテン大山店から車で15分くらいの天瀬町五馬市に”五馬媛の里”があります。古墳時代の首長五馬媛が祭られている土地です。














