おおやまのなりたち
貧しかった大山の村おこしは
N.P.C運動と名付けられています。
旧役場庁舎前に建つ3つの願い像がこれを象徴しています。
「働くねがい」「学ぶねがい」「愛のねがい」です。
第1のNPCは所得追及の運動です。
梅栗植えて所得を増やそうと図ったもので「働くねがい」が込められています。
「梅栗植えてハワイへ行こう!」というキャッチフレーズのもと、大山町が゛農業革命゛というべき第一次NPC運動に取り組み始めたのは昭和36年。農地に恵まれぬ山村の宿命として、土地収益性を追求、耕地農業から果樹農業、さらに高次元農業へと転換を図ってきました。この間労働条件の改善にも積極的に取り組み、軽労働、省力労働に適する作目を奨励現在では、半日で農作業が終了する"週休三日農業"を目指しています。
第2のNPCは豊かな人づくり運動です。
新しい人格の結合体を目指そう、それにはまず豊かな心・教養・知識をもった人づくりだというわけで、その精神が「学ぶねがい」になっています。
昭和40年にスタートした第二次NPC運動は、所得ばかりでなく心も豊かな人を作ろう!という運動で、いろんな催しや行事をやる中から切磋琢磨、お互い人間を磨きあって行こうというものです。そのために、町役場には自学自習の生活学園と有線テレビが施設され、民度の向上を進めています。また、"習慣付け学習"として、恒例行事の各種イベントを催しています。農協は"体験学習"に重点をおいて住民に国内や海外研修旅行をすすめています。ハワイ・中国・イスラエルとそれぞれ友好関係を結び、親善交流を盛んにしています。また、国内はもちろん海外からも友人が来訪し、民泊をして親交を暖めています。そのため農協は低利の旅行ローン・無料のカルチャーバス・農業後継者への育英資金を設けるなど便宜を図っています。
第3のNPCは住みよい環境づくり運動です。
大山パラダイスを築こうという遠大な目標です。大山に住む人びとがより楽しく暮らせるよう環境をつくっていこうということで根底に「愛のねがい」があります。
第三次NPC運動が始まったのは昭和44年でした。所得向上の目標が達せられ、豊かな心をもった隣人に恵まれてもなお若者が大山にとどまろうとしないのはなぜか....。それは都会に比べて文化・娯楽・教養などの環境整備があまりに遅れているからではないのか。田舎に暮らしていても都会のような文化的生活を享受できるようになれば....、逆に農村こそ真のパラダイス、理想的な生活圏になる!そう考えたところからこの運動の取り組みが始まりました。そのため環境整備をどうするか。まずそれぞれの生活行動半径内に利用しやすい便利な文化生活施設が集積されていなければダメだ、ということから大山を八つの文化生活団地に分けています。五分ぐらいの時間で用が足せる距離を生活行動半径としたエリアで、ここにそれぞれ文化生活施設を集積していこうという考えでした。そうして施設をそつなく活用し、楽しく暮らすためにコミュニティ運動をすすめ、運命共同体としての親密感情の復元につとめています。
おおやまの設計
設計1/はじめに愛があった
大山農業のカミサマ
大山の基本設計をした人は矢幡治美です。村長と農協組合長を兼ねて16年、農協組合長だけだと33年の長きにわたり、”大山の父”と呼ばれた人です。1993年に81歳で亡くなりましたから、今では”大山のカミサマ”になりつつあります。大山村の農協組合長を引き受けた背景には、人生の師であった金光教会日田教会の堀尾保治協会長の言葉があったのかもしれません。自分の家族を大切に思う人は多いが、それを超えてさらに周囲の人びと、ひいては村ぜんたいの人びとの幸福を願うのが真の信心だ、と堀尾保治教会長は語っています。
こうして矢幡治美は一人の資産家から、村のために人生を賭ける公人となったわけです。
設計2/つぎに必死があった
希望を説く
1950年代は日本中が敗戦後の貧しい時代でしたが、とりわけ山間の大山は農業収入が大分県最下位。もともと土地が少ないために明治大正時代から山林労働や出稼ぎの現金収入で食べてきた村でした。そうやって農業収入が少ない上に戦後の経済的逼迫で現金収入の道まで断たれたのですから貧しさの極みと言えます。栄養失調で青ざめ疲れきっている人びと。結核患者が多い、けわしい地形での重労働で足腰を傷めた老人が多い。そんな人たちに何を語っても、言葉が空しく吸い込まれていく気がしたにちがいありません。それでも矢幡治美は役場と農協の幹部ともども毎晩毎晩、各集落をまわって、あなたがたは農協に何を期待するかと尋ね、また、私たちの将来ヴィジョンはこうだと説いて歩きました。組合長になってからには後に退けない。ピンと張り詰めた緊張感が漂っていました
設計3/そして数字があった
コスト計算
「 これから先の時代、コスト計算ができれば農業は必ず儲かる」と、かつて農業で全国表彰されたことのある大分メンテナンスの社長、谷口来さんは断言します。「農家が稼げないのはコスト計算ができないからだ」と。大山の設計もこのことを証明していると言えます。矢幡治美は造り酒屋の後継ぎであり、製茶などの事業を手がけてきたバリバリの経営者でした。おそらく戦後の日本で最初に、農業にコスト計算を導入した人物だったのではないでしょうかと思います。
信念
1962年(昭和37年)山間の地に最も適した作目として大山はウメとクリを導入しました。それも、なまじの決意ではなかったのです。何年もかけて周知に調査し、村の人たちには一軒ずつ口コミの情報を流し、各団体ごとに研修に出てコンセンサスを取り付けた結果でした。
設計4/アメリカを見た
読み
大分県の山の中に居ながら、大山の人たちは30年後の日本の食生活を予想していたフシがあります。それは本やテレビによる情報ではなく、ヤハタハルミというセンサーが1959年(昭和34年)という早い時期から何度もアメリカへ行ったせいだといえます。その頃は一般の人がアメリカへ行く機会などほとんどありませんでしたが、日田市の大河原病院院長が同級生だった縁で、矢幡治美は病院の事務長に化けたわけです。かくして世界医師会があるたびに医師団に加わり、欧米を貪るように視察して回りました。モノがあふれ、生活がゆたかだけれど、公害やストレスの問題を抱えているアメリカの都市。高齢化がはじまり、生産性が落ちてみんなが高い文化を楽しんでいるヨーロッパのまち。日本がいつかたどっていく道だろうと、矢幡治美は鋭く読んでいました。
大山町農協のこだわり
大山町中津尾の堆肥工場には、すっかり古ぼけてしまった看板が立っています。
『オーガニック・マニュアル・プラント』
1970年代にこれを掲げたときは、”オーガニック”という言葉をだれもしりませんでした。
当時の農協組合長、矢幡治美は何十年も先をよむ優れた経営感覚の持ち主でした。
経済成長でモノがあふれてきた日本が、やがて飽食の時代を迎え、慢性病がおおくなって、みんなが健康を求めるようになると、すでに70年代に予言していたのです。
耕地面積の少ない大山は大規模農業には向かない。少量でも優れたものをつくって行こうというのが大山の設計図でした。
すぐれた農産物をつくるためには、健康で力のある土づくりをしなければいけない。
大山町農協が取り組んでいたきのこ栽培の工場から、使い終えたオガクズがたくさん出ます。
このオガクズを堆肥化して大山じゅうの土をつくるアイディアがうまれました。すべてリサイクルしてきた古来の農業の知恵です。
『オーガニック・マニュアル・プラント』と堆肥工場につけられた名前にはあたらしいことに挑戦する意気込みがあふれています。
私達のひそかな投資
オガクズを堆肥化した有機肥料は”養土源”と名づけられました。
農家が安く買えるように40L入りの袋を200円で販売しましたから、大山じゅうの農家がどんどん使って梅林にもスモモなどの果樹園にも野菜畑にも有機肥料がたっぷり行きわたるようになったのです。
”養土源”を1袋200円で販売すると農協の堆肥工場は年間多額の赤字がでました。それでも大山の農地を力強い土にする長期計画のために農協は隠れた投資をしつづけたのです。
いま”養土源”は日産300袋。年間にすると8万袋が生産され、そのうち7万袋は町内でつかわれています。
土が健康になると農薬はほとんどつかわなくてもよくなりました。
消毒が欠かせないといわれた梅でさえ、他の産地の人が驚くほどの少量の、危険性のないものしか使っていないのです
経営理念
我々は一致団結して、豊かな活力ある農村づくりに励みます。
地球環境と生命体を大切にした生産と包装に取り組みます。
生活者に評価される産品を開発し、新鮮で安全なものを提供します。
快適で文化の享受できる農村社会を興し、次世代に引き継いでいきます。
世界の町や村、そして都市と農村の交流の輪を広げていきます。
大山町農協指導路線
オーガニック(有機無農薬)農業を推進します。
市場では都市生活者の自然・健康志向から原材料、栽培方法、産地などにこだわった「オーガニック」産品が本流となりつつあります。そのような時代を先取りした有機農産物の生産に取り組みます。
環境にやさしい資材・包装を推進します 。
環境を守ろう」という機運が日増しに強くなっています。“ダイオキシン”が怖いのは子供や孫の代まで悪影響が及ぶからです。農業資材や農産品包装も再処理可能なものに変えていきます。
時代に即応した流通の開拓を行います。
農産品をはじめとする食品の流通が大きく変わり始めています。青果市場、小売店等の動向を見ながら「コスト削減を図った市場流通」を開拓していきます。
高付加価値産品開発に努め、収益率の高い農業をめざします。
耕地に恵まれない大山産品は他産地のものとひと味違った「こだわりの産品」でなければなりません。生活者の方々が安心して食べられるもの、そして「感動が残るもの」そのようなものには高い評価が得られます。
若者が継ぎたくなる快適農業を推進します。
「この町に若者が残るか」そのような魅力ある農業の開発が求められます。老壮青のバランスの取れた「親子三代農業」の実現が理想です 。
週休三日の余暇で文化の創造を行います。
農村に暮らしていても都市のような文化的生活を享受できるようになれば‥‥逆に「農村こそ真のパラダイス」理想的な生活圏となります。年間労働時間1,456時間(28時間/週)で実り豊かな楽しい生活を作りだしてください。
都市と農村との交流事業をすすめます。
梅ちぎり・スモモちぎり・キノコ狩りツアーや市場関係者、生協の組合員、木の花ガルテン利用者等、都市生活者に農村のもつさまざまな資源・生活・文化を紹介し、交流を深めながら「新鮮な農産品を提供」していきます。