おおやまプロフェッショナル農業集団

NPC7月号組合長エッセイ

「おおやまプロフェッショナル農業集団」という表題(タイトル)の広報宣伝と記念誌を兼ねた冊子を出版したのが平成7年10月でした。冊子は文字数をすくなくして、目で楽しみ理解しやすいようにカラー写真にして、A4サイズ・50頁(ページ)で5,000冊印刷しました。その頃、大山町農協には県内外から毎年、一万五千人から二万人の視察者が来所してました。その視察の方々には簡単な資料を差し上げてましたが、熱心な方はもっと深く知りたいと求める人もいます。そんな視察者には、このような冊子を別途に購入していただき研修に利用できたらとの思いもありました。全冊に定価1,000円を最初から印刷表示して、町内の約1,000戸には無償配布しました。そして残り4,000冊を希望する視察者などに販売をしたのです。カラーの写真をふんだんに使用した理解しやすい美しい立派な冊子に仕上っていたので、五年もせずに在庫は無くなりました。当時「ブロードキャスター」という、人気のテレビ番組で紹介され一村一品運動の発祥地とも評価が重なり、大分県大山町はあらためて日本中から注目が集まりました。農業に希望が持てない八方ふさがりの日本の中で、大山の農業専従者一人当りの平均収入は261万円(全国平均は172万6千円・平成4年度)そればかりか農業収入が1,000万円を超える農家が約200軒(農家戸数650戸)も出現していたのです。そうです、農業もやり方しだいでは豊かになれると証明してみせたからでした。視察に来た人たちが大山をみて先ず驚いたのは、周囲を急峻な山に囲まれ、耕地に恵まれず、天然資源にも恵まれなく、農家一戸当たりの耕作面積は、段々畑や棚田を20カ所も30カ所も合せてようやく40a(4,000㎡)だったからです。視察を終えた人たちが、口々に語っているのはこんな条件の悪い大山の農家が、これだけの実績を残し、しかも若い後継者や若嫁も沢山いて、未来への夢や希望を語り合っていることに感動と興奮でした。そして「自分たちの方が、もっともっと条件の整ったところで農業をやっているのだから大山よりよくなるぞ」と視察を後にしたのでした。そのような大山の基本設計をして今日の礎を築いたのは故矢幡治美名誉組合長です。昭和29年5月より62年5月まで33年間農協組合長でした。農協組合長になった翌年(30年)には大山村村長(のち町長)を兼任したのが16年間でした。その治美組合長が逝去されたのが平成5年10月1日です。享年81歳でした。この山峡の大山のムラに、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国各地より組合長と所縁のある方々がご功績を偲び空前の3,000人という参列者を迎え、大葬儀が執り行われたのです。もちろん町内の国道212号線は大渋滞となり、高速道日田インターも大混雑で下りられず一つ手前や先の把木インターで下ろされることとなりました。「プロフェッショナル農業集団」は、治美組合長が逝去された二年後に発行。偉功を称えるための記録とその歴史部分を12ページ掲載して出版したのでした。振り放け見れば、大山の「虹を追う群像」は農作物の種子を蒔くと同時に、知識という種もまいて夢を追い続けて来ていると思っています。

次号につづく

農業後継者のハワイ研修旅行 
H5.8.19~27(8泊9日)