月も未練な十三夜
令和6年NPC3月号組合長エッセイ
大山町で「田んぼに梅を植えましょう、畑に栗を植えましょう」と梅栗運動が始って63年になります。
貧しさに疲れ、気力を失った人たちに、なんとか「ヤル気」を起こさせるにはどうしたらよいか。現金収入によって“余裕”が生れることが先か、それとも将来の夢が描ける“知力”をつけるのが先か。当時の治美名誉組合長が「私は農協組合長であり村長という自分の任務と責任の重大さに、重い石を背中にしょったようで、重苦しく打ちひしがれる日々であった」と後日語っていたのを思い出します。そして結局は、“ゆとり”と“知力”の二本立てでいくしかないという結論を出しました。また一方では、放送で情報を流すという、きわめて斬新な手法も取り入れました。戦後の日本が「情報化社会」という言葉を使い出したのは昭和50年代のことですが、この時はまだ昭和30年です。「村中のみんなが喜ぶ電話と自主放送が流せる有線放送というものをつくろう。」と提案。治美組合長の発想は一石二鳥型で、まず農協貯金をいまの二千万円から五千万円にするキャンペーンを行なう。五千万円達成のあかつきには有線放送を開設して情報サービス機能を充実するという条件付約束でした。それまではのんびりと暮らしていた農協職員も靴底をすり減らして昼夜、村内の家々を貯金の獲得にまわりました。それでも貯金はそう増えるものではありません。そこで組合長は一計を案じ「別府博覧会」と結びつけました。「五千万円になったら、昭和32年に別府市で開かれる別府博にご招待します」という“御負け”を加えました。観光旅行は、その時代の農家にとっては大変な魅力でした。たちまち郵便貯金や銀行貯金を下して農協貯金に回す家が続出。郵便局・銀行にとってこのキャンペーンは親のカタキとなりました。昭和32年3月別府博が始ったある日、大山村はじまって以来の20台の大型バスが農協前に到着です。五千万円貯金に加わった人すべてを乗せて温泉の街別府へ向かいました。由布院盆地をすぎて別府へ上っていく見晴らしのよい坂道が上から下まで大山村農協貸切りのバスで埋ったときは、「やった、やった、大山村農協はスゴイ、スゴイ」と、職員も農家も涙を流したといいます。私も小学校2年生ぐらいでしたが、何故か参加してました。そして博覧会場での想い出に今でも強く残っているのは、生れて初めて見る立派なステージの歌謡ショーです。歌っていたのは、当時の人気歌手であった藤島桓夫でした。まだ農家にはテレビも無い時代です。先のエッセイで「十五夜お月さま」と「十三夜」のことを綴りました。その時に藤島桓夫が歌っていたのが、
〝包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業 待っててこいさん 哀しいだろうが ああ 若い二人の 想い出にじむ 法善寺 月も未練な 十三夜〟
という「月の法善寺横丁」でした。当時は歌詞の意味も解らず、あの独特の鼻声を聴きショーを眺めてました。今でも「月も未練な十三夜」という言葉が強く残っています。
さて有線放送も五千万円貯金達成で昭和32年に完成しました。
このことについては、また後日綴りたいと思います。
中大山で田を耕す少年、矢幡富只さん(当時)