令和7年組合長エッセイ3月号

経営者であり労働組合委員長

リヤカーを引いて野菜を売り、一代で年商150億円の「丸果大分大同青果(株)」を築き上げられた、村上年夫さんが昨年9月11日、94歳で亡くなられました。その生い立ちからを先月号で綴りました。続いて紹介します。

 私が村上さんと初めてお会いしたのは79年(昭和54)頃でした。数えてみれば45年間ぐらいのお付合いをいただいていたのです。

村上さんは次のように語ってました。「私には、独特の経営スタイルがあるんじゃあ。私の体の半分は、いわゆる経営者。もう半分は、労働組合の委員長というものだ。組合運動に没頭した20代前半までに、労働と資本の価値は同じと徹底的にたたき込まれたことが大きかった。08年(平20)に10歳年下の副社長に社長を任せ、会長に退きました。私はこれまで何度も危機を乗り越えてきた。ピンチになると不思議と知恵がひらめくのだ。そのことを後任の人たちに教えたいが、なかなか伝えることができなかった。人を育てる難しさを実感したんじゃあ。」と語っていたのを思い出します。85歳で社長に復帰されました。ただすぐに後継者が必要な状況に変わりはありません。お会いするといつも「セゴちゃん誰かいい人は居ないかのう」と問われました。そんな中で周囲の方々が推薦したのが食肉の卸・小売り、そしてホテルやレストランなどを多角的に経営されている大分市の「(株)まるひで」グループを率いる小野秀幸社長(当時70)でした。小野社長も一代でその立場を築き上げた苦労人です。村上さんは「長い人生を振り返ると、『私はとても運が良かった』確かに苦労はしたが、レットパージに遭って会社を辞めさせなければ、八百屋になることはなかった。会社員のままなら今頃は退職して、もう死んでいてもおかしくないだろう。私の仕事人生、本当のところは『何かを決断するときに私の意志はほとんどなかった』八百屋になったのも経営者になったのも成り行き。会社を立ち上げたのも、国の法律ができ中央卸売市場ができたからだ。運命の流れに身をまかせていただけ、ただ『人との出会いに恵まれていたんじゃあ』とにかく苦労はしたけど八百屋人生は楽しかった」と語ってました。亡くなられてから近親者のみで密葬を済ませてました。そして10月2日に大分市内のホテルで「告別式」と「お別れの会」を執り行うことになりました。その日時が決まって小野秀幸社長より電話が入りました。私は小野社長とは大同青果社長になる前から交流がありました。開口一番「告別式」を執り行うにあたり「村上会長と生前親しかったヤハタさんに弔辞を述べてもらいたい」との申し出でした。一旦は私如き者にはその任にあらずとお断りしましたが、強い要請でしたのでしかたなくお受けしました。あれだけの大きな方ですから、弔辞は何名ですかと問うと「元社長とあなたの二人です」との返答にビックリです。これはとんでもないことを受けてしまった、と後悔しましたが手おくれです。高邁な弔辞は諦めて開き直り、稚拙駄文でも心をこめて会長との想い出を述べることとしました。村上会長と最後の会食をしたのは亡くなる3ケ月前の6月11日(火)の夕食でした。まさか人生のお別れになるとは思いもせずに接したことが悔やまれてなりません。

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元気に乾杯の発声をする村上会長