令和6年組合長エッセイ6月号
余暇を求めて週休三日の農業
「週休三日の農業」を大山農協が提唱したのは昭和52年でした。60数年前の大山の農業は段々畑や棚田に食用とする作物、米・大麦・小麦・粟・稗・黍・玉蜀黍・豆類などの穀類を栽培をしてました。いわゆる「種蒔き農業」です。その種まき農業から「永年作物の果樹農業」へと転換していったのが「梅栗運動」でした。そうです「田んぼに梅を植えましょう。畑に栗を植えましょう。」と昭和36年から始った大山の農業革命です。それからの大山は苦労と試行錯誤を重ねながら常にチョッと無理かなという目標を掲げ挑戦を続けています。そのことが大山の底堅い原動力であると思ってます。
先々月号で綴りました、昭和32年(67年前)に全国で2番目に開設されたのが農協の有線放送OYHKです。日本で「情報化社会」という言葉が使い出されることに先駆けて、その20数年前に大山独自の情報化で、地域住民の皆が活性化されて豊かになる農村を歩きはじめていたのです。振り返えれば大山は、大体10年ないし12年間隔で新しい基軸を提唱しながら、皆で協同の力を発揮しそれを乗り越え、また次の目標を立てて挑戦を続けています。つまりこれが「働き、学び、愛し合う」という3つの願いを繰り返し、繰り返し螺旋階段を昇るように上っていく終りのないNPC運動の基本理念なのです。地域自ら個性のある豊かさと繁栄を考え、実践あるのみです。農業は天候に左右されるものです。今年の梅が大山のみならず全国的に大凶作に見舞われてます。原因は昨年夏の高温続きで花芽に異状が出たのと、今年の開花期の低温長雨、その後に氷点下の温度となった為と分析されてます。そのような天候に左右されない安定した農業を目指して、昭和47年には施設を利用して栽培する菌茸類の瓶栽培やクレソン、ハーブのハウス栽培、そして食品加工などが導入されました。また大山は耕地が狭いため、広い土地で生産する重量作物をキログラム単位で売る大量生産、大量販売との競争は避けて、「軽薄短小」のグラム単位で売る稀少種、軽量作物の少量生産、そして多品目栽培の「ムカデ農業」「高付加価値販売」という方式を周知徹底してきました。それは重労働から軽労働化への思いもありました。むしろ快適労働へと進みたかったのです。この方式の思いの奥には「月収農家」づくりという更なる目的もありました。そのうえ夏と冬にはボーナス、春にはベースアップもあるというものです。大山の農家はサラリーマン以上に休みをとり、サラリーマン以上に収入を得るというものでした。巻頭の週休三日に戻ります。週休三日を説明しますと、午前中の4時間、あるいは午後の4時間を濃密に農作業を行います。つまり週7日間、28時間の実働となります。一般のサラリーマンは、一日に7時間は実働してますので、割ってみますと28時間の農業の作業というのはサラリーマンからみれば4日分働いたということになります。つまりこれが週休三日です。そして新たに作り出された午前、あるいは午後の4時間を「人づくり時間」に使いましょう、という提案をして余暇時間を楽しむことが生まれたのです。
そしてなんと大山が週休三日農業の提唱した15年後の平成元年に、国は週休二日制を提案したのでした。
次号へ続く
婦人部による農作業着とおしゃれ着のファッションショー(昭和61年11月8日(土))