NPC2月号組合長エッセイ
畏敬の八百屋様
私たちが栽培した農産品の大半は青果卸売市場に出荷して競売にかけられます。そのひとつの市場が県都大分市の公設市場にある「丸果大分大同青果(株)」です。その大同青果の「代表取締役会長、村上年夫」氏が昨年9月11日に94歳で亡くなりました。村上会長は1929年(昭和4)に大分市新川西の漁師町に生れました。物心ついた頃には父はなく、小学校6年の頃には母も亡くなり、漁師をしていた祖父に育てられました。熊本逓信講習所を卒業して、最初に職を得たのは福岡郵便局でした。その福岡で戦中の空襲に遭い、命拾いして故郷の大分市に汽車で戻る途中の小倉駅で玉音放送を聞いたといってました。そして大分市のバス会社に入社した後、労働組合の専従の執行委員になり、労働者の待遇改善のため会社側との交渉で積極的に活動しました。これがあだとなり連合国軍司令部(GHQ)のレッドパージ(共産党員とその同調者を公職・企業などから追放すること。赤狩り。)により会社から解雇通告となりました。当時はレッドパージになると、まともな職には就けませんでした。それからは生活のため焼き芋屋や農家から仕入れた米を闇市で売るなどの担ぎ屋をしたりと、仕事を転々としている中で青年団活動で出会った女性と仲良くなりました。奥様になられた富美子さんとの出会いです。しかし安定した職もない者に娘はやれないと、親族の方々からは結婚は反対されました。彼女に「何とかなるさ」と二人で駆け落ちして別府で暮らしはじめたと村上会長は語ってます。そんな生活の中で奥様が大病を患い入院したことが切っ掛けで、実家に居場所が知られてしまいほどなく結婚が許され大分市の実家での生活が始りました。そんな時に伯母さんから「八百屋でもせんかい」と声を掛けられたのが、青果業と関わるきっかけとなったのです。新婚生活を安定させるために実家にあったわずかなお金をかき集め野菜を仕入れして、月賦で買ったリヤカーを引き一人で八百屋をはじめました。「リヤカーを引いての野菜売りは惨めで恥かしかった」とも語ってました。リヤカーを引きはじめて一年後には第一子の長女も生まれ、次第に蓄えもできてリヤカーの月賦も完済されました。そして奥様が店番の小さな間借りの野菜売りのお店も構えました。仕事は順調にすすみ一年半後には三輪トラックも買って野菜売りに精を出したそうです。その後もっと経営を安定させながら発展していくために同業の八百屋仲間が集まり、青果組合連合会をつくり、労組時代の交渉経験を生かして仲間の先頭に立って行動したようです。そのようにして幾多の試練を乗り越えて60年(昭和35)に、丸果大分大同青果の前身大分中央青果市場を誕生させて専務に就任しました。そして取引先の信頼を得ながら事業を拡大してきました。また商売の基本を徹底的に学び、経営分析や予算管理の方法など事業運営を教わり猛勉強したとも語ってました。76年(昭51)に新しく合併した「丸果大分大同青果(株)」が誕生して、村上さんは副社長になり77年(昭52)社長となりました。リヤカーを引き一代で年商150億円の丸果大分大同青果を築き上げ、伝説の人となった村上年夫さん、語り尽くせません。次回に人間的な魅力を再び綴ってみます。
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五馬媛の里、桜を愛でる会に来園された村上会長 右より村上会長、中谷 健太郎氏、溝口薫平氏