出会いに感謝

令和7年10月号組合長エッセイ

がんの専門家で国立がんセンターの中央病院長や総長を歴任し、現在は名誉総長であり日本対がん協会会長を務めている82歳の垣添忠生医師が「がんサバイバーを支援しよう」「3.11を忘れない」と書かれた幟旗を掲げて、東日本大震災の被災地を一人で約3カ月間かけて1025キロメートルを歩いた感動の記録と物語りを先月号で紹介しました。今回はその垣添先生と大山との出会いを綴ってみます。

垣添先生に初めてお会いしたのは、平成27年の5月でした。そして1カ月後の6月末に紹介していただいた高橋さんと3人で夕食をしながら歓談をしました。いま、思うと赤面(恥ずかしくて顔が赤くなる)ですが、その時には垣添先生がそんなに立派で偉い方とは知らずにお酒の勢いも手伝って次のように口にしてました。

「私は九州の福岡と熊本、大分の県境に位置した、九州のチベットみたいな急峻な山間の小さな村の農家・農民です。その小さな村の農協が平成3年より4年に1度、『梅干の祭典・全国梅干コンクール』を開催してます。今年の秋が第7回の開催です。その出品された梅干の審査委員10名のひとりになっていただけませんでしょうか。」とお願いしました。先生に日程を尋ねられたので、10月26日(月)と応えると、先生は自分の日程ノートを取り出して、「丁度その一日だけが空いていますので、日帰りでどうでしょう」と言われました。そこで私も厚顔を顧みずに図々しく、「先生日帰りは無理です。前日の夕方に来られるか、早朝の便で来られて審査会を終り、翌朝の便で東京に帰られるかでしょう。」と半ば強引に日程調整をお願いしました。結果、先生も当日の早朝に入り、翌早朝の便で東京に帰られる日程で審査委員を受けて下さいました。ある機会に広瀬勝貞大分県知事に梅干コンクールの開催要領と審査委員10名の資料を差し上げると、知事は名簿をみて、これは国立がんセンター総長の垣添忠生先生か?と問われました。知事は通商産業省から経済産業省に名称が変更された当時、事務方のトップである新旧の事務次官を例外的に長くされた方です。当然、垣添先生は偉い名医で、日本の名立たる高位の方々の「がん執刀」もされた有名な医師だと知ってました。知事からそんな大先生に梅干の審査委員をお願いするとは、無知も無知、失礼だぞと注意を受けました。知事もそんな権威ある日本最高の名医が、何故、小さな村で開催される梅干コンクールの審査委員を受けられたのか、摩訶不思議な出来事と感じられたのでしょう。私も垣添先生の履歴と活動を知るにつれ、恐れ多いお願いをしたものと後悔の念にかられたものです。審査員を受けたことについて後に先生は次のように述べてます。「私はがん医療・がん研究一筋に約40年やってきた人間である。しかし、まったく新しい事に挑戦することは常に知的探求心を強く刺激される。2つ返事で承諾しました。」こう語られて、先生から見れば異邦人(違う国の人)みたいな大山とのお付き合いが始りました。

次号につづく

右より垣添先生、小泉武夫教授、中谷健太郎亀の井主人、溝口薫平玉の湯会長