世界に誇る偉人 二宮尊徳

令和7年12月号組合長エッセイ

小さい頃、祖父から二宮金次郎の話を何度も繰り返し聞かされてました。大山町内の小・中学校には金次郎少年の銅像は建っていませんでしたが、母の生まれた隣町の五馬の小学校には「焚き木を背負って本を読んでいる少年」金次郎の銅像が建ってました。私の祖父さんは、多分その銅像の少年のように、やりたいことも我慢して真面目に家のお手伝いをしながら、勤勉実直に勉強をしなさいと諭していたものと解釈しています。このような金次郎の銅像は日本全国の小、中学校の校庭に建っていたようですが、現在では、金次郎少年の焚き木を背負って本を読んでいる姿の銅像を見かけることはありません。何処にいってしまったのでしょうか?残念です。金次郎少年は天明7年(1787年)238年前に、相模国小田原在の柏山村(現在の神奈川県小田市)に生まれてます。生家は、比較的裕福な小地主であったのですが、5歳の時に関東地方を襲った大暴風雨により近くの川が氾濫しました。溢れた土石流で所有する耕地が埋めつくされたり、流されたりしてしまいます。それから一家は土地を担保に借金をして、貧乏なその日暮らしとなり、父も苦労が重なり体調を崩し彼が14歳の時に他界します。父を失って一家の家計は更に苦しくなっていきました。金次郎は家計を助けるために、早朝から山に入り焚き木を採り、昼は農作業をして、夜は草鞋作りに精を出しました。金次郎は、生まれつきの学問好きから、焚き木を集めて背負い家路への往復に難しい儒教の経書(孔子など中国古代の聖人が述作したとされる書)などを読み、近隣の村人を驚かしたといいます。貧しいけれども親孝行をし学問好きの少年、多くの人が抱いている金次郎の姿は、この頃の姿なのでしょう。その後も母親と共に日夜働きますが生活は更に苦しくなっていきます。正月に家々をまわる大神楽がきたときも、大神楽に差上げるわずかな金さえなく、居留守をつかわねばならぬほどの貧しさに落ちこんでました。そして母の実家の父が逝去し、母と共に葬式に出かけたところ、服装が見すぼらしいというので、親戚扱いされず、粗末な別室で食事を出され、あまりの仕打ちに、長女であった金次郎の母は憤りと悔しさの余り、嘆きに嘆いて涙が止まらなく泣いて泣いて、その10日後にこの世を去ってしまいました。父を失って2年後のことで、金次郎が16歳の時でした。貧困の苦しい中で味わったこの深い屈辱感は強く金次郎の心の中に残りました。そして後年この話をするたびに、いつも声をつまらせて泣いたといいます。母の死後、金次郎は伯父の家に、二人の弟は母の実家にそれぞれ引き取られました。残された三人の兄弟は離散となります。このように若いうちから金銭の重みや悲しみをいやというほど味わった金次郎は、貧困から脱け出すために、金銭収入を増やすことと学問を身につけることに骨身を削り、更に昼間は農作業に精を出し、夜はむさぶるように本を読み知識を積み重ねていきます。その後金次郎は二宮尊徳と名を改めます。「経済の発展を忘れた道徳は寝言、道徳を忘れた経済は罪悪」と徹底した合理主義とたぐいまれな行動力で、荒廃した全国の六百余の郡や村を次々と再建していきます。尊徳(金次郎)の実践思想は、渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫はじめ近代日本の代表的実業家に大きな影響を与えています。

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二宮金次郎の銅像